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おたく的なことをちまちまと綴るブログです。
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 姉は死んだような顔で夢を見ていた。
 否、屹度大多数の人間は、夢を見るような顔で死んでいたと言うのだろう。けれど、おれにとって、棺に横たわる姉のその表情はとても馴染み深いものだったのだ。噎せ返るような線香と菊花の甘ったるい香りが肺腑を死の色に染め上げて行く。過剰に粉で化粧いた姉の顔が、初夏の突き刺すような太陽光と同じくらいにギラギラと白く眩しかった。
 姉の棺にはゲームのコントローラーを入れてやった。熱で熔けないものは困ると葬儀屋に渋い顔をされたのだけれど、金属製ではないから熔けるのだと半ば強引に捩じ込んだ。姉はいつも死んだような顔で夢を見る人だった。あのコントローラーがなければ姉は向こうでもう眠ることすら出来なくなってしまう。
 おれの目の前には姉の死体があった訳だけれど、何故だか僕はそれを日常から掛け離れた異質なものとは思わなかった。そもそもおれは姉とずっと同じ家で暮らしていながら、姉が死んだことに丸々半日気付くことができなかった。その半日の間に、何回か姉の部屋を覗きに行ったにも関わらず、だ。詰まるところ、おれは死体と半日間同じ家で自然に暮らしていた訳だ。姉は何時もみたいに無骨な大きいヘッドフォンを頭に着けて、サングラスみたいな立体眼鏡を掛けてコンピュータの画面を覗き込んでいた。何時もみたいにゲームを遣りながら、姉は死んでいた。姉が死んでいることに気付いた時に、おれは呆然とした。姉が何時から死んでいたのか分らなかったのだ。今朝? それとも昨日? それとも、一週間前? ずっとずっと、生きているように見えて死んでいたのではないのか? そう、思った。警察の人が半日前に死んだのだと言わなければ、多分今でも姉が死んだ時間なんて分っていなかった。
 おれは薄情な人間だろうか? それは当たりでもあるし外れでもあるだろう。おれは姉の声を一週間前から一度も聴いていなかった。部屋を覗き込んだ時も声なんか掛けなかった。声を掛ければ怒られるからだ。姉にとって夢の世界は第一だった。姉はおれに関心を払わなかった。言って仕舞えばおれにとって画面の前から梃子でも動かない姉は何時でも死体みたいなものだった。もしかしたらおれは今までずっと死体と一緒に暮らしていたのかもしれない。
 おれは薄情な人間だろうか? 分らない。ただ、今こうして姉の死体に対峙しても、何ら特別な感情は湧き上がっては来なかった。明日にはまた、何事もなかったように姉からのメールが携帯電話に届くのではないか。そんなことを考えてしまうくらいに、姉の死体はおれに姉の死を実感させてはくれなかった。
 私大生だった姉の葬式は親族だけで密やかに執り行われた。父も母も、そしておれも、姉に近しい人物なんて中高時代の担任を除いて一人も知らなかった。
 姉の世界は、姉の脳の中で全て完結していた。
 姉は夢の世界の住人だった。おれら家族の前には、何時だって姉の抜け殻だけが搾り滓のように顕現していた。姉は何時でも夢を見ていたし何時でも死んでいた。だから、死んだような顔で夢を見ているのか夢を見るような顔で死んでいるのか、本当はそんな議論に意味なんてない。

 コンピュータの画面がおれを嘲笑している。
 死体ならお前に遣るぞと。
 お前の姉を殺したのは、他でもないこの私なのだと。
 もしそれが本当だとしたら、それは世紀の完全犯罪だ。誰も気付かない。それそのものさえも、殺されたということが理解らない。けれど、殺した本人だけがそれを殺したことを知っている、そんな完全犯罪。

 完全犯罪だ。はっとしておれは呟いた。そうだ、完全犯罪。脳裏に冷たくて奇麗な後ろ姿がひらりと浮いて、残響を伴って消える。痛みを感じるほどに乾いた喉を唾液を嚥下して潤しながら、震える指で不遜に明滅を続ける頭の中の液晶画面に可否を問い掛けた。
 おれはきっと、これから愛する人を殺すだろう。考え得る最も残酷な方法で、人間としての尊厳を奪うだろう。何をしても手に入らないから愛しくて憎くて仕方のないものをおれのものにするために、姉がその身を以って示してくれた最低最悪な手段で貶めるだろう。おれは気付いてしまった。だから試さずにはいられない。

 ――現代の「恋愛」は、どこかゲームに似ている。相手という駒をいかに上手く使って己を満足させるか、皆一様にそんなことを競っているように見えてならない。そこには相手を慈しむ気持ちはない。あるのはただ、孔雀の羽で尤もらしく着飾ったその実真黒な、闇色をした自己満足だけだ。常に忌避し続けたその醜い恋愛観に浸ろうとしているおれを、誰か嘲笑ってくれないだろうか。否、嘲笑されることすら許されない。完全犯罪に救いはない。何故ならそこには己の姿しかないからだ。誰も気付かない。被害者と加害者、そんな関係性がそこにあったのかすらも分らない。おれの脳内にしかないその事実。その世界。
 それは姉が死ぬ直前まで見ていた世界と何が違う?
 傍目に見えなくとも姉にとっては真実だったその世界。それを否定することは屹度、誰にも出来ない。

 液晶画面が切り替わる。おれが問い掛けた思考の正否を伝えようと血液のファンが空転する。一瞬暗転した思考の水面に映り込んだ己の瞳が、酷く冷たくおれの行く末を嘲るようだった。

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