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おたく的なことをちまちまと綴るブログです。
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≪まぐわ≫はいまや文字を書かず、ただ突き立てているのだった。≪ベッド≫はもはやからだを反転させず、針が深々と刺さるように、からだをたえず上へと震えながらもち上げているのだ。旅行家はなんとかしたかった。なろうことなら機械を停止させたかった。これは将校が意図していたような拷問ではなく、単なる殺人にほかならないのだ。








※以下好き勝手「流刑地にて」の考察とか書きなぐってます。興味ない方はスルーでお願いします※



最近カフカが好きすぎて死にそうなんですが、この「流刑地にて」を読んだら全身に鳥肌立って涙出てきて10分くらい呆然として電車降り損ねました。
カフカを何か単なる不条理系の作家だと思っていた過去の自分を殴り飛ばしたいです。
カフカはとりあえず有名どころ一通り読破しましたが、この「流刑地にて」こそ最高傑作なんじゃなかろうか?


概要とかは読んで貰えばいいだけのことなんで触れませんが、この「処刑機械」、こんなクレイジーなものを思いつくカフカの頭の中って一体どうなってるんだろう。
カフカの専門家とかに言わせると意見は百花繚乱なんでしょうけども、私はこの小説で一番ハイライトすべきところは「何故処刑機械が壊れたのか」だと思います。
以前は多くの見物客で賑わった、けれど今や必要最低限の人員と旅行家しか居ない公開処刑場。前任の司令官が健在だった頃にはピカピカだった機械も今や予算削減の所為で見る影もなくオンボロに。死刑制度に疑念を抱き始めるどこかの「流刑地」では、今やその処刑機械を肯定しているのは前任の司令官シンパである将校ただ一人。「処刑機械」は、将校ただ一人の為にもっているようなものです。
将校しか使わないし将校しか使えない。そこがまず第一。
第二に、カフカを読む時に欠かせないものの一つが「描写の分解」と言う視点だと授業で教わったのですが、この「処刑機械」の描写もまさにソレ。部分部分の描写が際立ちすぎていて全体像がぼやけて統合できない。「カフカの小説に一番似つかわしくないのが風景画」とか言われる所以はそこにありますね。要するに、この処刑機械のことを本当の意味で「知って」いるのはその場にいる囚人でも兵士でも旅行家でもましてや分解された描写の所為で機械の姿を統合出来ない読者でもなく、将校だけだということです。部品の集まりが、「唯一それを見ることの出来る」将校によって意味のある動作を可能にしていた。「処刑機械」は元々は意味をなさない部品の集まりだった、それが第二です。
将校が処刑機械に掛かった瞬間機械は崩壊を始めますが、それの理由が先に書いた二点だったんじゃないかなあと。部品の集まりを「処刑機械」として知覚していた将校自身がその中に取り込まれてしまうことによって、統合が崩れてしまったのじゃないだろうか。きちんとした手順で拷問を加えていた機械が、ただの殺人機械になってしまった、それは処刑機械が将校の目を失ったことによって最早意味のある動作を出来なくなってしまったから。うーん、穴がありそうだけど一応筋は通ってるかなどうだろうな……薄いかな……囚人と兵士の目とかも考慮に入れるべきだろうか、うーんでもなあ。うーん。

でもそう考えると、「正義をなせ」の意味がちょっとぼやけてしまうんだよなあ。
感情的に読むなら、将校が「浄化」を拒んで「正義をなした」結果が機械の故障であったとも読めるんだけど、カフカをアレゴリックに読むなって教授から厳しく仰せつかってるからなあ。根っから文系人間なんで感情的に読みたいですけど。うーん、凄く好きな作品なんだけど通り一遍の読み方しか出来なくて悔しいです。色々他の人の批評読んでみることにします。


しかし、カフカを読み始めて地続きの風景を文字に分解してしまうことの恐ろしさってのを実感しました。
やっぱり絵画と文章っていうのは時間の流れを内包しているか否かという点で本来交わらざるべきものですね。
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